2019/3/30 Argo(あるご)アピール文 Yes!魔法少女いちむら・ユタカ  3月22日になりました。そろそろアピール文を書いて、ソフトを作ろうかと思いますね。現状としては「こころ」の主人公が卒業論文を書かないといけない、みたいな状態ですね。青空文庫から引用してみましょう。 夏目漱石「こころ」の二十五、 ****************  その年の六月に卒業するはずの私は、ぜひともこの論文を成規通り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑った。他のものはよほど前から材料を蒐めたり、ノートを溜めたりして、余所目にも忙しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽ち動けなくなった。今まで大きな問題を空に描いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を抑えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。 **************** ↑私も「今まで大きな問題を空に描いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた」ですよ。「こころ」の中で一番印象的な部分です。「私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。」とか、あまりにも痛々しくて読んでいる私が死にたくなるじゃないですか。というか、むしろここ以外に何を言っている話でしたっけ、これ。まあいいや。まあ頑張ってアピール文を書こう。ソフトは4月に入ってからなんとかします。というか本当にこの10ヶ月何してた>私。 ・去年から変化ないです  技術的な部分については去年から追加できたところはないのですみませんが技術的な独自性については去年の文を参考ください。  時代はどう考えてもNNUEですが、当方はいまさら三駒のキメラ化を試していました。現状は以下のとおりです。  キメラ化した評価関数を50回ずつ自己対戦させてみた結果。 AP-QH 4.1 17-7-26 APERY4.2 AP-QH 4.1 20-3-27 QHAPAQ4.2 AP-EL 4.1 21-4-25 APERY4.2 AP-EL 4.1 23-5-22 QHAPAQ4.2 AP-TN 4.1 20-9-21 APERY4.2 AP-TN 4.1 18-7-25 QHAPAQ4.2 AP-EL40 4.1 22-8-20 APERY4.2 AP-EL40 4.1 16-6-28 QHAPAQ4.2 AP-EL60 4.1 19-10-21 APERY4.2 AP-EL60 4.1 20-5-25 QHAPAQ4.2 AP-EL30 4.1 27-12-11 APERY4.2 AP-EL30 4.1 6-2-12 QHAPAQ4.2 これは50回やってない AP-QH70 4.1 18-10-22 QHAPAQ4.2 AP-QH60 4.1 23-3-24 QHAPAQ4.2 AP-QH30 4.1 20-6-24 QHAPAQ4.2 AP-QH40 4.1 22-6-22 QHAPAQ4.2 AP-(EL-QH)67 23-5-22 QHAPAQ4.2 AP-(EL-QH)50 20-7-23 QHAPAQ4.2 AP-(EL-QH)75 21-3-26 QHAPAQ4.2 AP-(EL-QH)85 16-6-28 QHAPAQ4.2 AP-(EL-QH)60 17-9-24 QHAPAQ4.2 AP-(EL-QH)70 25-3-22 QHAPAQ4.2 256手で引き分け ソフトは両方共YO4.82、定跡はyaneuraBOOK3を使って確率で手を採択させた。 持ち時間は15分、秒読み10秒。 書いている通り左側がSSE4.1で右側が4.2でコンパイルして動かしています。 比較対象として対局しているAPERYとQHAPAQは両方共WCSC28のものです。略称は、 EL elmo WCSC28 TN tanuki- SDT5 AP Apery WCSC28 QH Qhapaq WCSC28 何も書いていないものは50%ずつキメラ化したもの、数字があとに書いているものはその割合でキメラ化したものです。 例として、AP-(EL-QH)70 は、 エルモとカパックを50%ずつキメラ化した評価関数とエイプリーを70%:30%の比率でキメラ化した、ということを表しています。 25-3-22とあったら左側から見て25勝3分22敗、という意味です。  使っているのはデスクトップとラップトップでCPUがそれぞれi5の何だったか調べるのだるいので調べませんが、4コア有る内の1コアで計算をさせています。 ・AWS使いたいですね  やり方が分からなくて結局去年使えなかったので今年は頑張ってAWSを使うべく頑張りたいとは思っています。  去年の2次でタヌキさんチームとやったですよ。フッと見るとタヌキさんがm5.24を8つクラスタリングしていたですよ。「8つかー」って思ったですよ。私的にはアメリカ軍のB52爆撃機がジェットエンジンを8発搭載しているのをそのときに思い出してですね。それを相手にして1つも使わないで挑むっていうのはちょっと無理があるんじゃないですかってことを思ったわけですよ。ちなみにビールさんも5つクラスタリングしていましたね。まあ、そういうのとやらないといけないわけなんですよ。なんとか頑張って今回はAWSを使いたいと思うのですが、頑張りたいですね。  ちなみに、ハニーワッフルさんはm5.24ではなくてその一個下のm4.16を使っていたですよ。「なんでですか?」と伺ったら、サッカーでFC東京が好きだから東京リージョン以外のを使いたくないのですと言っておられました(東京リージョンにはm5.24がない)。私もF1でホンダが好きだから多分自動車を買うとしたらホンダ以外に買いたくないので気持ちがよくわかりました。ただ言えることは、もしハニーワッフルさんがm5.24を8つクラスタリングしたハードで闘っていたら決勝でもっと上位に行ったんじゃないかということを思わざるを得ないので、なかなか難しいなと思いました。というか、これなんの勝負なんですかね。 ・ライブラリの選定理由  なんで「やねうら王」を使うのかということについて書きたいと思います。  私が「やねうら王」を使っているのはそもそもやねうら王nano/miniが当時公開されて、そのコードを読んで改造するところからコンピュータ将棋に入ってそのまま「やねうら王」を使い続けているということです。この話は去年の文にも書いたと思います。 「やねうら王」のすごいと思うところは改造をしてくださいという工夫というか情報提供が活発になされているところだと思います。  やねさんが110億局面の教師データを公開してみたり、シボレーの情報を公開してみたり、私も使いましたがキメラ化のコマンドについて情報公開がなされていて、やねうら王形式の評価関数もいくつか公開されています(使用申請をしたelmo,qhapaq,tanuki-,Aperyはそのキメラ化を試してみたいという理由によります)。そもそも当時に教育用のnano/miniが公開されたということも先進的です。  そして現時点ではWCSC28でタヌキさんチームが発表したNNUEがホットトピックであると思うのですが、現時点ではそれは基本的には「やねうら王」で使うもので、NNUEをやろうとなったらなにか特別な用事がなければ「やねうら王」を使わないですかね。このNNUEについてもカパックさんがブログで情報提供をしていたり、あるいは同人誌を発表されたりと、そういうふうに改造をしやすい環境が整っているから「やねうら王」のユーザーが多くなり、その結果としてやねうら王が強くなっているのではないかと思います。 ・テンションが微妙な事もあって最近は作文ができません。そんなアンニュイな気分になることが珍しいのでその状態を楽しんでいる最近です。それにしても、最近は欲望がなくなってきました。私はこれまで欲望が強い生き方をしていたので(特に名誉欲が強かった)こんなに欲望がない生き方をすることが珍しく、いつまで続くのかと思いつつも珍しいのでしばらくは欲望が出てくるまでは欲望のない生き方をしてみようと思っているところです。おかげで最近はぼんやりしていることが多く、そのぼんやりとあれこれ考えている状態が心地よいということを思っています。  というか、私は基本的に名誉欲が強い人だったのですが、昨年の選手権で「一次予選通過候補はArgo」みたいに私のことを言及してくれるツイートがあったのですが、それを見たらすごく恥ずかしくて、自分で「あれだけ名誉欲が強くて有名になりたいって思っていたはずなのに他人が自分について言及しているのがとにかく恥ずかしいってなんだろう」と思ったわけですよ。多分、有名になって他人から言及されることが多くなっても私はそんなに幸福には感じないのだろう、ということをそのときに思いました。それだけでこの選手権に参加してよかったと思います。ありがとうございます。  ポナンザの山本さんがツイッターで「勝ちたい」って定期的にツイートするじゃないですか。最近経済学の本を読んでいて、そもそも社会というのは「競争」ではなくて「協力」を基本としている、ということをしみじみと思うようになってきているので、そもそも勝つとか負けるとかいうことがどうでも良いことだと思うようになってきました。科学の研究でも「この分野は競争が激しい」とかって新聞記事とかに書いてあったりするじゃないですか。私が思うに、そもそも他の人がやっているというのならば他の人に任せたらいいんじゃないですかってこと。他の人がやってくれると嬉しいけど誰もやっていないから仕方ないから自分でやるかって言うことをそれぞれがやっていたらいいと思いますよ。将棋のプロ棋士とかも、勝つとか負けるとかってことをずっとやっているように思うのですが、それってそんなに重要なんですかね。学校を卒業して、試験で点を取ることがなんであそこまで重要だと思っていたのかがもはやわからないように、将棋の棋士をしていないと将棋の対局で勝つということがどうしてそんなに重要なのかというのがよくわからないんですよ。将棋の棋士とかの評価基準はすごく変わっていると思う。対局で勝利するほうが偉い・良い、というめちゃめちゃ変わっている基準。学校の評価基準、「勉強ができる・試験で良い点が取れる」やつが「偉い・良い」、という基準がかなり変わっているということは思います。新聞に「試験の点だけで評価しないでほしい」という学生の投書が時々載ったりする。学校のこの評価基準はとにかく公平に評価しようということをすごく重視して制度設計されていると今にして思う。というのも、学校を卒業して民間企業で雇われてみると、民間企業の評価基準が年功序列とかコネだろうというふうにしか思えないので。なんの理由もなくコネで評価されるとか入社してから何十年もいる人がそれだけで偉いということを基準とする民間企業の評価基準を前にすれば、学校の「試験の点だけで評価する」ということがめまいがするほどに公平な評価方法であると思う。性格の良し悪しを考慮しないのですから。そして将棋の棋士の「対局で勝利すること」を評価基準とするというのもまたびっくりするレベルで変わった評価基準だと思う。 ・将棋と経済学  そもそも思うことは、将棋の勝利条件についてです。藤井七段が朝日杯を2連覇したそうです。そういう感じのニュースを聞くたびに前から薄々思っていたのは「棋戦とかで優勝した一人だけが勝利者であって、残りの全員は敗者なのだろうか?」という疑問です。  大体において「対局で勝利すること」を勝利条件と置くと50%が勝利条件を満たせないじゃないですか。いくらなんでも敗者の比率が多すぎませんかと。基本的に適当にやっていたら全員が勝利条件を満たすことができる、というゲームじゃないとそのゲームは成立しないんじゃないですかということを思うわけですよ。将棋の勝利条件はなにか?ということを考えてみると、「将棋に関わるすべての人を幸福にする」ということがそもそも将棋というゲームの目的であって、「将棋をすることで幸福になった」ということが勝利条件なのではないかということを思うわけです。「勝ち負けに関係なく将棋をプレイして楽しかった」ということならば全員が達成可能であるはずだということを思うのです。それが勝利条件であり、それゆえに全員が勝利者になることが可能であると思う。  遊園地を考えてみましょう。ディズニーランドとかUSJとか。遊園地の目的は「来る人を全員幸福にする」ということだと思うので将棋と立ち位置は近いと思うのですよ。そして三人で遊園地にでかけて三人とも楽しかったというのならばそれは全員が勝利条件を満たしているじゃないですか。「アトラクションを回った数が一番多い人が勝利者」とかが遊園地の勝利条件ではないはずだ。勝者は一人だけで残りの二人は敗者ということでもないはずだ。将棋の勝利条件もそういうものであるはずなんですよ。  個人的に経済学の本を読んで経済学の勉強をしていました。その話を書きます。個人的には自然現象を数学的に取り扱うのが物理学で、社会現象を数学的に取り扱うのが経済学という印象を持っています。それなので物理学を勉強していると経済学は物理学のアナロジーで理解するとわかりやすいと思いました(ついでにいうとツイッターで流れていた「社会学は非計量経済学」というのが社会学の定義?としてしっくりきています)。 「有限の財の効率的な分配方法を考える学問」というのが経済学のオーソドックスな定義だと聞いています。大雑把にいってお金で買えるモノ・サービスを「財」と呼びます、多分。  例として国民が10人でその年のお米が1000kg収穫できた、という国を考えます。単純計算すると一人100kgずつお米を分配するということになりますが、年が若い男性はたくさん必要でしょうし、女性・子供・シニアの人は100kgもいらないかもしれません。そういうときに、管理人が「あなたは130kg,あなたは70kg」というように配ってまわるという方法が一つあります。そしてもう一つの方法が、お金というシステムを使って分配を行う、という方法です。私達日本人が通常行っているようにお金(貨幣)を使って個人個人が勝手に買い物をする、という方法でお米を好きなだけ買うということをみんながすると、最適な分配が自動的に実現できる、というふうに考えます。それで現在の日本なんかでは「国民それぞれが好きなように買い物をする」という方法で財をやりとりすると、最高効率の分配が最小のコストで実現できる、というふうに考えて、可能な限り、お金というシステムを用いてというか、「個人個人が好きなものを好きなだけ取る」という方法を基本として分配を行っているのだと思います。そしてその方法が使えない種類のモノ(税金とか、生活保護とか、日本ではないけど徴兵制とか)については「仕方がないから」やむをえずに、管理人が強制力を用いて分配を行う、ということをしているのだと思います。  そして、そもそもの話として、分配の基本は、「1.満足度(効用)を最大化するように2.財を分配したい。それを実現するための道具が3.お金(貨幣)である」というその順番です。一番重要なのは「満足度(効用)」です。二番目に重要なのが「財」です。「お金(貨幣)」は三番目に重要なものです。多分その順番です。  お金についての本を読んでいると大抵の場合「お金が一番重要だ」というような書き方をしているのでなんでかなと思うのですよ。ポナンザの山本さんが面白いとツイッターで書いていたので「お金2.0」という本を読みました。この本は面白かったですがやっぱりお金が一番重要だというスタンスで書いてあるように読めてそれがなんでかなと思うんですよ。どう考えてもいちばん重要なのは「満足度(効用)」じゃないですか。どうしてその視点があまり出てこないのかと。  そして物理学においてエネルギーが生成・消滅をせずに姿が移り変わっているアナロジーとして、お金というものも生成・消滅はしないで財との交換を行うことで移動するという印象を持っています。「宝くじで10億円当たらないかなー」というようになんにもないところからお金がポンと湧いて出てほしいという種類のお金の欲しがり方をする人が時々いますがそれは物理学で言うエネルギーが湧いて出る永久機関みたいな感じで多分実現できない、多分お金は財との交換によって手に入れるものであると思う。生成・消滅を行うのは「財」であるというイメージを私は持っています。だからお金を手に入れようと思ったら財を提供しないといけない。もうちょっというと「他人を幸福にする」ということをするとお金が対価として得ることができるのだと思います(実はこの問題は根深いと思う。お金を財と交換する、というのではなく、順番が逆で「お金と交換されたものを財とみなす」ということで財を定義しているのではないかと思う)。  だから「お金をたくさん得たい」というのならば、「たくさん他人を幸福にする」ということで実現が可能であるはずだと思う。それがこのシステムのすごいところだと思います。「皆さん、利他的に振る舞ってください、他人を幸福にしてください」と呼びかけてもそれができる人は少ないと思う。他人はどうか知らないけど少なくとも私はそんなに利他的には行動できない。だけど、「他人はどうでも良いからとにかく自分がお金持ちになる」ということならばモチベーションとしては維持できる気がする。そして「自分がお金持ちになる」には「他人を幸福にする」ことが必要なので、それぞれが利己的に行動すると結果的に「他人をたくさん幸福にする」という利他的なことを結果的にしてしまう、ということになってしまうのだと思う。常識的に考えると「他人を幸福にする」という利他的なことと、「他人なんかどうでもいいから自分だけ得をすれば良い」という利己的なことは両立させることは難しいと思う。だけどこのお金というシステムにおいては「他人を幸福にするとお金が手に入る」というゲームのルールになっていることによって、「他人なんかどうでもいいから自分だけ得をすれば良い」ということがそれすなわち「他人を幸福にする」ということと結びついているように私には見える。それが本当にすごいというかよくできたゲームのルールであると思う。だからお金について書いてある本で、「お金が一番重要だ」という視点で書いてあっても実用上あまり不都合はない。お金儲けを頑張ってするということはイコールで他人を頑張って幸福にするということにつながっているのだから。  将棋の棋士はどうなのでしょうか。上に書いたように「将棋の勝利条件は勝ち負けではなく、将棋をして楽しかったということ」だとか言っても、「何言ってるんだ、勝つか負けるかだろう」というふうに言う人は一定数いると思うんですよ。それは経済学において「満足度が一番重要だ」ということに対して「満足度とか何言っているんだ、お金が一番重要だろう」というふうに言う人が一定数いるだろうということと同じです。  このお金というシステムにおいて、利己的なことが利他的なこととダイレクトにリンクしているように見えることと同じように、将棋の棋士においても「とにかく自分だけ勝てばそれで良い」という利己的な振る舞いを全員が取れば、結果的に全体としてうまくいく、ということが実現できているのでしょうか?それができているのがこのお金というシステムなので、ここまで将棋が続いているのならばそういう事ができているのだろうということを思うのですが、そのへんのロジックが私の中でまだしっくりきていないでいます。 注:上記の内容はコミックマーケットC95で発行された、サークル「アニ☆ブロ」様の同人誌「アニブックログ2018 冬の増刊号」に寄稿した作文「『りゅうおうのおしごと!』に見る将棋と経済学」に記載した内容と一部重複しています。  将棋の棋士という商売のビジネスモデルが何なのだろうかということを思います。誰に何を売っているのか?ということが考えてみてもよく分からないんですよね(言い方を変えると、誰に対してなんの価値を提供しているのかがよく分からない、少なくとも新聞社に棋譜を売っているとかではないと思う、そう考えるとBtoBだけど将棋の棋士というビジネスモデルはどちらかというとBtoCに近いんじゃないかと思うので)。これから持続可能なビジネスモデルなのかということもよくわからないです。当事者がそのへんを考えて運営をしているのかどうかもよく分からないです。  そういう事を考えていると思うのが、世界はそういうビジネスのほうが主流になりつつあるのだろうということです。30年くらい前はまだ食料が重要であるという考え方は今よりも強かったと思うのですよ。個人的には宇宙に行ったTBSの秋山さんがTBSをサクッと辞めて自給自足の農家の暮らしを始めたあたりが印象的でしょうがなくて。私は古い人間なので「農業は大事である」「突き詰めて考えれば秋山さんがやった自給自足の農家の生活こそ正しい生活である」ということを思うわけですよね。そういう感じだったので私はとりあえず製造業の会社に入りました。ただ、最近知ったのですが2018年位には、日本での一次産業従事者って4-5%で、二次産業従事者が25%くらいで、三次産業従事者が70%くらいなんですよね(働いている6000万人ちょっとの内の5%・300万人くらいだけで日本の1億3000万人分の食料って供給できちゃうんですね)。あとは2018年の世界の企業の時価総額ランキングで、1-6位がGAFAとマイクロソフトとバークシャー・ハサウェイで、7位がアリババで8位がテンセントだったのを見たときの「あれ、今って農業とか工業の時代じゃないんだな」っていうあの感じとかですね(今更かって感じですが)。多分いま現在とこれからは将棋の棋士みたいに「なんだかよくわからない」職業が一番、みたいな感じなのかなと思います。あと思うのは任天堂ですね。あの任天堂って会社は「自分達が売っているものは人間が生きていく上で全く必要がないものである」ということをよくわかった上で、「人を楽しませるにはどうすればよいか?」ということを徹底的に考えている会社だと私は思っているのですが、そのへんは将棋の棋士にも通じるものがありますね。 ・アニメ「エガオノダイカ」感想 3/22までなので最終回まで見てません、ついでに今週の分もまだ見ていません  なんでコイツらは戦争をしているの?という話ですよ。  どうやらエネルギー源となる鉱石「クラルス」を巡って争っているらしい、ということもあれば、そのクラルスを動力源とした食糧生産プラントの描写があったから「エネルギー=食料」であるという世界でも有るらしい。そして食糧生産プラントのエネルギー源にもなるし、軍事用途でも使うと強力、であることから、クラルスが現代社会における「原子力」のメタファーなのかということも思う。最近の話だと「クラルスはこの惑星をテラフォーミングしたときに散布した惑星改造用のナノマシンからエネルギーを取っている」ので、クラルスをエネルギー源として使用すると惑星の環境が悪化してしまう、ということになっていてますます面倒くさい感じになっているっぽい。ニコニコ動画でみていると「電気使うなと今更言われても困るよなー」というコメントが流れていた。  戦争が起きる原因的なものの経済学的なスタンダードな解釈は、財の絶対的な不足による、というものだと思います。 「少女終末旅行」のアニメ版1話「戦争」にあった、 「戦争って殺しあうんでしょ。なんでそんなことするんだろうね」 「さあ…相手と自分の利害が一致しなかったり、例えば3人いるのに食料が2人分しかないみたいなときに、武器をとって戦うしかなくなるんだよ」 ↑これですね。  それなので、経済学的な考え方をするのならば、財が足りている状態を維持することができれば戦争は発生しない、ということなんだと思います。実際のところは財が足りていたとしてもなんか争うんじゃないかということは思わなくはないですが、大雑把に言えばそういうことになるとは思います。「マクドナルドがある国同士は戦争をしない」という「マクドナルド理論」とかもそういう話をしているんじゃないかと思います。早く平壌にマクドナルドオープンしないですかね。グラミン銀行のムハマド・ユヌスが「貧困は博物館行き」と言っていますが、貧困が博物館行きになった時点で戦争も博物館行きになるのではないかと思います。  本作を見ていても、グランディーガ帝国の皇帝がソレイユ王国の首都を陥落させて「勝負は決した」と言いながら軍備の拡張をまだやろうとしているシーンが有りました。このシーンを見ていて、グランディーガ帝国がソレイユ王国に攻め入ったのは財が不足したとかではなくて、ただでさえ少ない財を軍備の拡張に使ってしまったからではないか、ということを思ったわけですよね。財の絶対的な不足ではなくて失政によるものではないかと。  さり気なく描かれているシーンから見ている私が勝手に妄想すると、「この戦争はやらなくてすんだ戦争だったんじゃないか?」ということを思わざる得ないんですよね。  あとは引っかかるのはソレイユ王国の王様であるユウキの姿勢ですね。ユウキは戦争をするにあたって、自国のみならず敵側の死者もなるべく少ないほうが良い、という姿勢で指揮を取ります。私の知り合いはユウキのこの姿勢を「甘い」と言っていましたし、ソレイユ王国のユウキ以外の人もついていけていない考え方なわけですけど、私はそれはそれで一つの思想である、とは思いましたし、戦争をしていて「敵側の死者も少なく」という立場を取ることができるのはむしろすごいんじゃないかとびっくりしています。ユウキはその姿勢で首尾一貫しています。「こういうふうでよいのだろうか」と悩むシーンとかは一切ない。私は自分がソレイユ王国の王様だったとしてこういうふうな振る舞いができるだろうかと考えると自信がなくて、だからユウキは少なくとも私よりもよほど強い人間だと思う。私以外の見ている人がどう思っているかはわかりませんが私がすごく印象的なのは「ユウキの人間的な強さ」についてですね。それが印象的でしょうがない。  見ていて思うことは、ソレイユ王国は日本国のメタファーである、ということです。だから日本国がこういうふうであってほしい、というメッセージ的なものを私は勝手に感じています。 ・(広告・宣伝)コンピュータ囲碁の大会「AI竜星戦」に皆さんぜひ参加しに来てください  2018年12月の中旬にコンピュータ囲碁の大会AI竜星戦2018が開催されました。そのときに2019年もやりますという話があったのでおそらくは2019年12月の土日にAI竜星戦2019が開催されると思うのですが、ぜひ皆さんも参加していただけるとありがたく思います。2018のときはエントリーが15チームで寂しかったのでこの将棋の大会みたいに60チームくらい来てくれると賑やかで良いと思います。よろしくご検討いただきたくお願いします。