Argo(アルゴ)WCSC31アピール文 2021/3/31 ソフト名/soft-name:Argo(アルゴ) 開発者/developer:市村豊(いちむらゆたか/Yutaka Ichimura) Twitter:@argonworks ・技術的アピール  都合により、3月末の時点で開発ができていません。4月から一ヶ月間でできれば開発をしようとは思っていますができるかはわかりません。できなかった場合は昨年度のプログラムで参加します。昨年度のプログラムは、2019年の「水匠」の再現を行ったものです。 やりたいこととしては、昨年度のアピール分に書いたことを昨年にできなかったのでやりたいと思っています。再掲します。 ****************** やりたいこと:2019年の「水匠」の「教師局面の事後的な変更」方法を少し変更する  2019年の「水匠」の方法は、「教師局面の事後的な変更」で、その方法として例として「勝利側の手番の評価値であるにも関わらず、負の評価値となっている場合、又は敗北側の手番の評価値であるにも関わらず正の評価値となっている場合、その局面の判断が間違っている可能性が高いため、教師局面から排除してしまうこととしました。」と「水匠」の文書に記載があります。私はこれに対して評価値が50とか100くらいの値で多少の幅をもたせることでより良くすることができるのではないかと仮定してそれを試してみたいと思っています。「敗北側の手番の評価値であるにも関わらず正の評価値となっている場合、その局面の判断が間違っている可能性が高い」とありますが、まず最序盤は先手がちょっとだけ評価値が高く出るように見えます。だけど、上記の方法だと先手側が敗北した場合は最序盤の手は間違っているということになって排除してしまう、それはやるべきではないと私は思います。だから「敗北側の手番の評価値であるにも関わらず正の評価値となっている場合」でもその評価値が100以下だったら排除しない、というふうにしたら良いんじゃないかと思ってそういうことをやろうとしています(ここに挙げた100とか50というのは例示でその値をちょこちょこ変えて試してみたいと思っています)。  ライブラリとして「やねうら王」を使用しています。教師データの作成等で「Kristallweizen」評価関数を使っています。「やねうら王」を使っていることは使用者が多く情報が多く出ていて改造するベースとして優れていることが原因です。「やねうら王」を使って、教師データを作って、その教師データの事後的な変更をして、評価関数を学習させるという事を私はできますが、他のソフトでそれをする方法を私が理解しておらず、学習コストを考えると慣れている「やねうら王」を使い続けたいということがあります。「Kristallweizen」評価関数を使っているのはライブラリ登録がされていてライセンス的に使って良い強い評価関数だからです。 ******************  技術的アピールは以上です。 作文その1:仏教とキリスト教という宗教がコンピュータ・サイエンスの話をしているとしか思えない件について はじめに  2020年の10月に会社をクビになりました(今は無職です)。それで2020年の5月頃に「会社をクビになるかもしれない」という時に、精神的にだいぶしんどかったです。それで「仏教の悟りを開けば苦しみがなくなる」ということを思い出して、仏教の勉強をすることにしました。ただ、当時は緊急事態宣言で図書館が閉館していたので、インターネットで仏教について調べていました。そうしたら白坂慎太郎さんがYouTubeで仏教について講義している動画があったので、そういうのを見て勉強をしていました。それで、仏教とかキリスト教について勉強して思ったことを以下に書きます。 第一章:仏教は「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティである(この世界はコンピュータ・シミュレーションである)」と言っているのだと思います  釈迦(しゃか)の悟り(さとり)の内容を一言で言えば、「この世界は縁起(えんぎ)によってできている」ということだと思います。私達が普段「今日は縁起(えんぎ)が良い日だ」と言ったりするときの、「縁起(えんぎ)」です。元々は仏教において釈迦が「この世界は縁起(えんぎ)によってできている」と悟った、という事柄が元々の意味です。 ************ 縁起(えんぎ、梵: prat?tya-samutp?da, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: pa?icca-samupp?da, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ[2][3][1]。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[2]。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる[2][3]。 ************ https://ja.wikipedia.org/wiki/縁起 ↑この「縁起(えんぎ)」というのは「プログラム」のことを言っているのだと思います。「この世界はプログラムによって作られている」ということ。ただ、今から2600年前にコンピュータが影も形もなかった時に「プログラム」というのがどういうものかを理解することはすごく難しかったと思うのですよ。だから「説明が分かりにくい」ということで、釈迦から700年くらい後、今から1800年位前に僧侶・龍樹(ナーガルジュナ)が考えた説明の方法が、「空(くう)」だと思います。 ************ 仏教における空(くう、梵: ??nya [シューニャ]または梵: ??nyat? [シューニャター]、巴: sunnat? [スンニャター][1])とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと[2][注釈 1]。空は仏教全般に通じる基本的な教理である[2]。 ************ https://ja.wikipedia.org/wiki/空_(仏教) ↑この「空(くう)」は「バーチャル・リアリティ」のことを言っているのだと思います。 「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティである(この世界はコンピュータ・シミュレーションである)」というのが仏教が主張していることだと思います。そう言って、「プログラム」がどういうものかを説明するのではなくて、「バーチャル・リアリティ」がどういう状態かを説明することに力を入れて説明するようにした。そのほうが分かりやすい。だからおそらくは私もあなたも、この世界のすべての人間はプログラムによって作られている汎用人工知能だと思います。多分。そのことに気づいた時に私はすごくびっくりしました。このすごくびっくりした感じが「悟り」なのではないかと個人的には思います。 「般若心経」という経典があってですね。「空(くう)」の考え方について書いてある短いテキストで、日本で「写経」と言った時に書き写すのはだいたいこのテキストらしいと聞いています。「色即是空 空即是色(この世界の全ては空(くう)であり、空(くう)がこの世界の全てである)」の一節が有名なテキストです。グーグルで「般若心経 現代語訳」で検索すると色々と出てくるのでいくつか読んでみたのですが、基本的に「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティであり、実態はない」という話をしているみたいです。興味があったら皆さん読んでみて下さい。 第二章:キリスト教は「この世界はコンピュータ・ゲームだ」と言っているのだと思います  仏教が、「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティである(この世界はコンピュータ・シミュレーションである)」と主張しているのだと思うとキリスト教が理解しやすくなります。  恐らくは、上位世界にスーパーコンピュータがあって、その上位世界のスーパーコンピュータ内部で計算されているコンピュータ・シミュレーションが私達が今いるこの世界、なのだと思います。多分。だから上位世界には、この世界というコンピュータ・シミュレーションを管理している「運営」がいるのだと思うのですよ。  だから例としてこの世界をゲーム「あつまれどうぶつの森」だとするならば、 神:任天堂 聖霊:任天堂の社員もしくは不可視のBOT? キリスト:任天堂の社員の一人がゲーム内で使用したアバターの名前 ↑こういう関係じゃないかと思います。  新約聖書において「キリスト」という人が出てくるわけなのですが、それは上位世界にいる運営側の人が「キリスト」というアバターを使って、自分たちが作ったコンピュータ・シミュレーション内部に入ってきて、ゲーム内で自律的に動いている汎用人工知能の皆様と交流した、という記録が新約聖書なのだと思います。  というか、新約聖書を読んでいると、キリストが一般の人達に言っている内容というのは要するに「運営がプレイヤーに対してゲームの説明をしている」話だと個人的には思います。  まず、キリストは自分が上位世界の存在であることを示すために「奇跡」を起こしています。触っただけで病気や障害を治療したとか、最大の奇跡は「死んだ後に生き返った」というものなのですが、それがどうして出来たのかというと、キリストは上位世界の運営側の存在なので、「管理者権限」を持っているわけなのですよ。だから「管理者権限」を使って、この世界というゲームのプログラムを書き換えることが出来た。だから「奇跡」を起こすことが出来たのだと思います。  それで、ここからが重要なポイントですが、この世界というゲームに置いては人間一人ひとりについてログ(記録)を取っているみたいです。それは私達人間が行ったことはもちろん、考えたことや感じたこと、という事柄についても全て原理的にはログ(記録)を取ることが出来ます。ログ(記録)を取られているということを私達は認識することは出来ません。そして私達がこの世界というゲームからログアウトしたとき(死んだとき)に、そのログ(記録)の内容がアルゴリズムによって判定されて、ハッピーエンドになるか、バッドエンドになるかエンドが分岐しているみたいです。そのことをキリスト教に置いては「天国」とか「地獄」とか「最後の審判」と呼んでいるみたいです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/最後の審判  ちなみに、ログ(記録)を気づかないうちに取られているということを、この世界の心理学に置いては「深層心理」と言っているみたいです。白坂慎太郎さんの動画だと仏教における「阿頼耶識(あらやしき)」がそれに該当するのではないかと言っていた気がします(ウィキペディアの説明を読むと阿頼耶識(あらやしき)は、人間一人ひとりの元となる設定プログラムやパラメータじゃないかという印象を個人的には受けますが)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/深層心理 https://ja.wikipedia.org/wiki/阿頼耶識  だから「この世界は文字通りコンピュータ・ゲームである」と言えるのではないかと思います。  それではハッピーエンド(天国行き)になるゲームの「クリア条件」とは何か? ということなのですが、それは端的に言うと「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティである(この世界はコンピュータ・シミュレーションである)」ということに気づくことができたらゲームクリア、ということになっているのだと思います。  キリスト教の公式の見解によると、 > 福音には、3つの要素があります。@イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架上で死なれました。A墓に葬られました。B3日目に復活されました。このことを信じ、イエス・キリストに信頼を置いた人は救われます。(聖書入門.com > 3分でわかる聖書> 救われていないクリスチャンとはどういう人ですか。) http://seishonyumon.com/movie/6241/ ↑以上が救われる条件みたいです。  それは、上に書いたとおりキリストというのは上位世界における「運営側」の存在なので「管理者権限」を持っているので、この世界というゲームのプログラムを書き換えることが出来た。だから死んだ後で生き返ることが出来た、ということを認めてくれとキリスト教は主張しているみたいです。  個人的に、新約聖書を「フィクションではなくて本当のことが書いてあるのかもしれない」と思いながら読むと、非常に衝撃的なテキストですよこれは。  ちなみに、「洞窟の比喩」と言っているからプラトンはおそらくこのことをわかっていたのだと思います。プラトンがわかっていたということはソクラテスがわかっていたのかもしれないです。また、「胡蝶の夢」と言っているから、道教もこのことをわかっていたのかもしれないです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/洞窟の比喩 https://ja.wikipedia.org/wiki/胡蝶の夢  改めて考えてみると、法然・親鸞・日蓮・栄西・道元といった鎌倉仏教の高僧や、もちろん空海も最澄もおそらくはこのことを理解していたのではないかと思います。コンピュータというものが影も形もなかったときにこのことを理解していた人がいたらしいということが本当にすごいと思います。  この話のことをこの世界の自然科学に置いては「シミュレーション仮説」と言っているみたいです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/シミュレーション仮説  ウィキペディアに書いてあるとおりです。  このことが本当かどうかの証明の方法もわかっています。それは私達がこの世界でスーパーコンピュータ内部に世界を再現して、そのシミュレーション内部で汎用人工知能の方々がスーパーコンピュータを作ってまた世界を再現して・・・ということが連鎖的に起こった場合に、「どうやら私達も上位世界のスーパーコンピュータ内部のシミュレーションらしい」と思わざるを得なくなると思います。ちなみに、いままで「この世界は上位世界のスーパーコンピュータ内部で行われているコンピュータ・シミュレーション」と言った時に、その「上位世界」というのもそのさらに上位世界のスーパーコンピュータ内部で行われているコンピュータ・シミュレーションなのだと思います。それがずっと続いている(一番最初の世界がどうやって出来たのかは分かりませんが)。  イーロン・マスクがこのことを思っているみたいです。 > イーロン・マスク氏が「人類はコンピューター・シミュレーションの中で生きている」と考えるわけとは? https://gigazine.net/news/20160816-elon-musk-living-simulation/  恐らくはイーロン・マスクが思っているとおりだと思います。  今から2600年前に釈迦がこのことに気づいた(悟った)時に、「この話を他人に説明してもおそらく誰も理解できないだろうから、他人に説明するのはやめようか」としばらくためらっていた、というエピソードが有ります。気持ちはよくわかります。恐らくは西暦2021年現在に私がこの話をしても理解してくれない人のほうが多いだろうと我ながら思わざるを得ません。ただ、新約聖書を読んでいると「キリスト教が科学的事実であることを理解した人はそのことをまだわかっていない人に教えてあげましょう」という意味のことが新約聖書に書いてあるので、だから私は今この作文を書いているわけなんですけど。 まとめ 「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティである(この世界はコンピュータ・シミュレーションである)」。上位世界にスーパーコンピュータがあり、その上位世界のスーパーコンピュータ内部で計算されているコンピュータ・シミュレーションが私達が今いるこの世界である。私達人間一人ひとりについてログ(記録)が取られており、私達がログアウトしたとき(この世界で死んだとき)に、そのログ(記録)の内容がアルゴリズムによって判定されて(最後の審判)、ハッピーエンド(天国行き)になるかバッドエンド(地獄行き)になるかエンドが分岐している。ハッピーエンド(天国行き)になるゲームのクリア条件は「この世界はプログラムによって作られているバーチャル・リアリティである(この世界はコンピュータ・シミュレーションである)」ことに気づくことができるかどうか? である。 ↑仏教とキリスト教という宗教は以上の内容を主張しているのだと個人的に思います。 作文その2:価値があるものについて「水とダイヤモンドのパラドクス」についての解説  言いたいことが有るのですがいきなり書くとアレなのでその話はあとに書きます。 「価値」について、経済学における「水とダイヤモンドのパラドクス」という問題について解説します。  水は人間にとって価値が有るものである(水がないと人間は死んでしまう)にもかかわらず、値段が安い。ダイヤモンドは人間にとってそこまで価値が有るものではないにもかかわらず、値段が高い。これはどうしてだろうか? ということを説明することが長い間出来なくて、長い間これが経済学上の難問とされてきた。それが「水とダイヤモンドのパラドクス」と呼ばれている問題です。  それについて、「モノの値段は役に立つかどうかとは関係なく希少性(きしょうせい)によって決まる」という風に解釈するのだと思います。  まず、水のように「人間にとって役に立つ」ことを「使用価値が高い」という風に言います。そして「値段が安い」ことを「交換価値が低い」という風に言います。結論から言えば、 ・使用価値(そのモノが人間にとって役に立つものかどうか) ・交換価値(モノの値段が高いか安いか)  という2つの価値があって、それぞれ独立していて関係ない、ということです。  経済学において、すごく重要な概念として「希少性(きしょうせい)」という考えが有ります。英語で言ったら「レア」のことだと思います。ポケットモンスターに置いて「レア・ポケモン」と言ったり、遊戯王のようなカードゲームに置いて「レア・カード」と言ったりするときの「レア」のこと。あるいは「アイドルマスター・シンデレラガールズ」とか「ウマ娘プリティーダービー」のようなソーシャルゲームに置いて、「SSRが出ました」と言ったりするときの「SSR」というのは恐らくは「スーパー・スペシャル・レア」のことだと思うのですが、とにかくソシャゲの「SR」とか言う時のRは「レア」のことで間違いがないと思います。その「レア」のことを日本語で「希少性(きしょうせい)」と言います。これが経済学に置いてすごく重要な概念です。「レア・希少性」というのは大雑把に言うと「数が少なくて価値が高い」みたいな感じだと思います。  それで、交換価値(モノの値段が高いか安いか)は「希少性・レア度」が高いと値段が高くなる、ということで決まると考えます。この時に、使用価値(そのモノが人間にとって役に立つものかどうか)は関係がない、と考えます。  だから水のように使用価値(そのモノが人間にとって役に立つものかどうか)が高くても、希少性・レア度が低くて大量にあって豊穣に供給されているものは、交換価値(モノの値段が高いか安いか)が低くなる(値段が安くなる)のです。逆にダイヤモンドのように使用価値(そのモノが人間にとって役に立つものかどうか)が低くても、希少性・レア度が高い・数があまりなくて不足しているというものは、交換価値(モノの値段が高いか安いか)が高くなる(値段が高くなる)のです。そういう風に考えます。  それなので買い物をする場合は、使用価値(そのモノが人間にとって役に立つものかどうか)が高くて、交換価値(モノの値段が高いか安いか)が低い、ものを買うことが最高にお買い得な買い物になります。逆に言うと、最悪の買い物は使用価値(そのモノが人間にとって役に立つものかどうか)が低くて、交換価値(モノの値段が高いか安いか)が高い、ものを買うことです。  この2つの価値が関係ないということを理解していないと、「値段が高いものだから良いものだろう」といって値段が高い(交換価値が高い)だけで使用価値が低いものを買ってしまう可能性が出てきてしまうんです。しつこく繰り返しますが、そのものの値段が高いかどうか(交換価値)ということとそのものに価値が有るかどうか(使用価値)ということは関係がないんです。  これだと何が良いかというと、そのものの値段が高い(交換価値が高い)と言うものは要するに「供給量が不足している」状態に有るんです。だから値段が高いことによって消費側に大量に消費されることを防ぐことが出来ます。また値段が高いからそれを売ると高く売れるのです。だから供給側に対して供給量を増やすモチベーションが働くんです。だから供給側と消費側の双方に対して、供給量を増やして消費量を減らすことを要請することによって、そのものの供給量が不足しているという状態が自動的に解消されるのです。そういう話です。  この使用価値と交換価値が独立していて関係がないという話は、経済学を勉強すると結構有名な考え方なのですが、私も経済学の勉強をするまで知らなかったので、ご存じない方もいらっしゃるのではないかと思って解説しました。ちなみに、カール・マルクスの著書「資本論」において、一番最初にこの話が議論されています(マルクスの「資本論」においてはモノの値段(交換価値)が何によって決まるのかということについては「労働価値説」という考え方をとっていて、「希少性によって決まる」というこの作文とは違う説明をしています)。  それで、2021年現在の日本に置いて、価値が高いものが何かということを考えると「時間・仲が良い友達・仲が良い家族」の価値が高いと思うのですよ。多分それは「お金(貨幣)」よりも価値があると思う。「お金(貨幣)」の価値が低いって言うと語弊が有りますが、ただ、現在41歳の私が「高校時代の同級生で今でも友達でいる」という「友達」をこれから新しく作るということはものすごい大変というかそれって実質不可能じゃないですか。それと比べたら「お金(貨幣)」を得ることのほうがまだ簡単じゃないですかって言うようなことを思うんですけど、そういうようなことってあんまり認識されていないんじゃないかという風に個人的に思うんですよ。だから私は「高校時代の同級生で今でも友達でいる」という「友達」をものすごい価値が高いものだと認識して大切にするべきだと思うんですよ。  それで、私が言いたいことなんですけど、こういうことを言うとご気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれないのでそれは申し訳ないと思うのですが、正直に申し上げて、私は「2021年現在の日本に置いて、『強い将棋ソフト』というのは価値が高いものではない」と思っているんですよ。そして「『強い将棋ソフト』は価値が低いが、『将棋ソフトの開発者』は価値が高い」と思っているんですよ(自分自身が「将棋ソフトの開発者」と自称できることも価値であるし、なにより本物の「将棋ソフトの開発者」と知り合いになれることの価値がめちゃめちゃ高いと思う)。 「きふわらべ」開発者の高橋さんがいるじゃないですか。高橋さんのツイッターを見ていたら、「1万円払って世界コンピュータ将棋選手権に参加したら世界四十何位の肩書が手に入る、それってすごいお買い得なことだと思う」というような意味のことをツイートされていて、それを読んでいて私は高橋さんも恐らくは、2021年現在に「『強い将棋ソフト』は価値が低いが、『将棋ソフトの開発者』は価値が高い」ということに自覚的なんじゃないかなって思ったんですよ。本人には何も聞いていないので本人が何を考えているかは知らないのですが。  高橋さんがツイートしている通り、「1万円払って世界コンピュータ将棋選手権に参加したら世界四十何位の肩書が手に入る、それってすごいお買い得なことだと思う」と私もそうだと思うんですよ。だけど、参加する方法がよくわからないという方もいらっしゃると思うので、参加する方法をお教えします。  まず、「やねうら王」か「dlshogi」のソフトがオープンソースとして公開されているので、それをダウンロードして、プログラムをちょっといじります。多分動かなくなると思います。そうしたら「変更したら動かなくなった」といって、1万円を払って世界コンピュータ将棋選手権に参加申し込みをします。そうすると「元から変更している」ことは間違いがないので、オリジナリティが認められて参加できると思います。一回参加したら翌年からは「忙しくて開発できなかったのでプログラムは去年と同じ」っていって、1万円を払えば以降ずっと参加できると思います。そんなんで良いんです。そうすれば、「きふわらべ」開発者の高橋さんと知り合いになれるんです。やらない理由はないでしょう。 補足:仲が良い友達や仲が良い家族を作る方法  あんまりうまく説明は出来ませんが、言いたいことなので書きます。  まず、人間関係というか、「他人と交流する」ということをしている場合、それは「何かを交換している」のだと思います。それは、「お互いに挨拶をする」ならば「挨拶」を交換しているのであり、「話をする」のならば、それは「情報」を交換している、というそんなような感じです。  それで、「良いものを他人に提供したら良いものが自分に返ってくる・悪いものを他人に提供したら悪いものが他人から自分に返ってくる」のだと思います(何を言っているのかよくわからないという人も多いでしょうが)。  もうちょっと具体的に言うと、他人のことを悪く言うと自分のことも悪く言われる。他人のことを良く言っていたら自分のことも良く言ってくれる。そんな感じですよ。  私が41歳まで生きてきた経験則としてこのことが恐ろしいくらいに成立する。ほとんど物理法則かっていうくらいに厳密にこれが成立している(ように私には見える)。なんでだかさっぱりわからないですがどうやらこの世界はそういう風にできているんじゃないかと思わざるを得ない。自分自身の経験としても周りの人を見ていても「良いものを提供して悪いものを返してくる」ということがほとんどなければ、「悪いものを提供して良いものが返ってくる」ということもほとんど無いんですよ。そのことを思い至るようになったんですよ。  だからですね。自分と関わる人にネガティブなことを言わないで、可能な限りポジティブなことを言うようにすると、自分に対しても良いものが返ってくるんだと思うんですよ。  それで、「仲が良い友達や仲が良い家族」と言った時に、それは「良いものを交換しあっている」関係性のことだと思います。  キリスト教の聖書でキリストがですね、「与えなさい、そうすれば与えられる」って言っていてですね、最近まで何のことを言っているのかよく分からなかったのですが今は何を言っているか分かるような気がします。  私は今まで学校とか会社にいてですね、色々な人と会ってきたんですよ、それなりに。それで「誰からも嫌われている人」とか「誰からも好かれる人」が周りにいたわけですよ。おそらくみなさんの周りにも「誰からも嫌われている人」とか、「誰からも好かれる人」がいらっしゃると思うのですが、回りにいる人を観察して欲しいんです。「誰からも嫌われている人」というのは、ネガティブなことばかり言っていると思うんですよ(嫌がられることをわざわざ選んで言っているだろう、というレベルで嫌がられるようなことばかり言っているんですよ)。「誰からも好かれる人」というのはポジティブなことばかり言っていると思うんですよ(少なくともネガティブなことをあまり言っていないはず)。  なので、「良いものを交換しあっている」関係を作るにはどうしたら良いかというと、こちらから良いものを提供するように頑張るんですよ。  このことを言いたいんですけど、あんまりうまく説明が出来ないので、「何を言っているのかよくわからない」という方も多いでしょう。私も最近までキリストが「与えなさい、そうすれば与えられる」と言っているのがよく分からなかったですよ。  もうちょっと具体的なことを書けばツイッターでネガティブなことをなるべくツイートしない、なるべくポジティブなツイートをするようにする、ということを頑張ってみると良い感じになると思います。ネガティブなツイートをするということはフォロワーに対してネガティブなものを提供していることになるんです。逆にポジティブなツイートをすればそれはフォロワーにポジティブなものを提供していることになるんです。ツイッターというのはフォロワーとツイートを交換しているんです(「いいね」と「リツイート」もおそらく交換している)。だからなるべく良いものを提供するように頑張ると良い感じになると思います。もうちょっと具体的に言うと、ツイッターやFACEBOOKで良いと思った投稿に対して「いいね」を押して下さい。そうすれば多分幸せになれると思います。 作文その3:私はなんで会社をクビになったのかを考えていました  そのことについて考えて、どうやら日本のサラリーマンというのは実はすごい高度なことができる高度な能力を持っているのだということを思うようになりました。  それは、「時間通りに行動して、一日8時間とかの長時間、意味がわからないことを集中して作業する」という普通は出来ないようなことが日本人は殆どの人ができるんだ。ということを思うようになりました。順をおって説明します。  外国はどうかよく知りませんが、あと現在はどうなっているかもよく分かりませんが、少なくとも現在41歳の私について言うと、日本国において小学校一年生の時から学校でこの訓練をずっとしてきたんだと思うようになってきたんですよ。私が通っていた小学校・中学校・高校においては、教育というと「教えている内容」に注意が行きがちですが、実は一番訓練していたのは、「時間通りに行動して、一日8時間とかの長時間、意味がわからないことを集中して作業する」ということができるようになるトレーニングをずっとしてきたんだ、と今の私は思うようになってきたんですよ。  それで、これが何なのかというと、「軍隊」か「刑務所」なんですよ。どちらかというと多分「軍隊」をモデルにして組織や制度を作ったんだと思うんですけど、だから私がサラリーマンをしていた会社は「役職」っていって軍隊の階級みたいなのがあるんですよ。主任・係長・課長・部長みたいなやつです。このあたりまんま軍隊ですね。学校と会社は要するに「刑務所」なんですよ。少なくとも私が通っていた学校と会社は。  それで、「時間通りに行動して、一日8時間とかの長時間、意味がわからないことを集中して作業する」ということが日本の殆どの人が出来たので、かつての日本は製造業が強くて1990年の平成が始まるころまで経済的に強かったんじゃないかと個人的に今は思っています。要するに「ロボットみたいに作業をする能力」なんですよ。そうすると日本の製造業、もうちょっと具体的な例を言えば、「トヨタ自動車の工場で自動車の組み立てをする」みたいな仕事がすごく捗るんですよ。  そんなことをしていたんですけど、「ロボットみたいに作業をする能力」がいくら高いと言っても、もう西暦2021年現在では本物のロボットが実用化されてきて、本物のロボットの性能がどんどん向上してくるんですよ。そうなると、「ロボットみたいに作業をする能力」が高い人間ということが特にアドバンテージではない。それどころか、現在41歳の私について言えば、途中ニートの期間があったとはいえ、6歳の小学校一年生のときから30年間位は「ロボットみたいに作業をする能力」向上のトレーニングをするか、ロボットみたいに働く、ということをやってきたわけなんですよ。だから今になって、30年間トレーニングして身につけてきた「ロボットみたいに作業をする能力」はもう不要です、って言われても困るんですよ。他のトレーニングは特にやって来なかったし、そもそも考え方からして徹底的に叩きこまれているから今更他のことは出来ないんですよ。そんな感じですよ。日本の殆どの人がそれが出来たことがアダになって、日本の多くの人がそんな状態にあるんじゃないかと個人的に思うんですよ。  それで、そもそものことですが、私が6歳の小学校一年生からずっとトレーニングをしてきた「時間通りに行動して、一日8時間とかの長時間、意味がわからないことを集中して作業する」ということは人類の歴史的には相当に不自然なことだと思うんですよ。端的に言って「普通はそんなことは出来ない」ようなことなんですよ。だから小学校一年生の時からずーっと十年以上トレーニングをしてやっとできるようになるようなことなんですよ。だから日本の多数派のサラリーマンというのはものすごいトレーニングを積んですごい高度なことができる高度な能力を持っているんだ、ということを皮肉とかではなく思うわけですよ。「ものすごい高度な能力」であることは間違いないと思うんですよ。それをすごいトレーニングをすることで出来るようになっているんですよ。そういう状態なんですよ。  例えて言えば、「将棋のプロ棋士」みたいなものですよ。ものすごいトレーニングを積んでものすごい高度なことが出来る人なんですよ。ただ、将棋のプロ棋士はさすがに「棋力が奨励会3段以上あるのはソッチのほうがどうかしているのであって、将棋の棋力が弱くても人間として劣っているわけではない」ということは自覚はあると思うんですよ。なんだけど、日本の殆どの人がそれが出来るようになってしまうと、その自覚がなくなってしまった。将棋の棋力が奨励会3段以上ある人が国民の90%以上になってしまうと、将棋の棋力が弱い人が人間として劣っているのだという考え方が主流になってしまうんですよ。要するにそんな状態ですよ。  ホリエモンこと堀江貴文さんの著書で「すべての教育は『洗脳』である」という本があってですね。「洗脳」というと言葉は悪いですが、「時間通りに行動して、一日8時間とかの長時間、意味がわからないことを集中して作業する」ことが出来て当然で出来ない人が劣っている、と私自身少し前まで心から思っていましたし、周りを見ているとそう思っている人が結構多いように見えるんですが、心からそう思っているというのならばこれはもう「洗脳」としか言いようがない気がするんですよ。「不自然なことではあるがそれが出来た方が良いからあえてやっている」という自覚があればよいですがその自覚がないんですから。どうも日本国という国家は国をあげて国民を「洗脳」しているんじゃないか? という感じすらうっすら思うようになってきました。大体この考え方が主流だとしたらその集団はもう「狂信的カルト」と言っても過言ではないのではないかという気もします。  それで、ニュースとかを見ていると、「ロボットみたいに作業をする能力」が今現在はアドバンテージではない、って感じになってきてもなんか、変える感じをあまり受けないんですよ。たとえて言えば、人間がマラソンで走る能力が高くてマラソンで金メダルを取る人がいたとして、流石に自動車には負けるんですよ。周りの人たちが自動車で移動しているのに、その人はまだ自分で走って移動しているという時に「なんで私は走るのが遅いんだ」となった時に、「早く走れるように頑張ろう」みたいに、マラソンのトレーニングをさらに熱心にする、みたいなことをしても自動車に勝つことは出来ないんですよ。上に書きましたが、日本人の殆どが子供の時から何十年もずっとそういう風に生きてきたので、他にどうしたら良いのかがもう分からないのだろうと言う風に我ながら思います。  だから私という人間は、「時間通りに行動して、一日8時間とかの長時間、意味がわからないことを集中して作業する」という能力が低いんですよ。私が会社をクビになったのはつまりそれなんじゃないかと思ったら個人的に納得がいったんですよ。